受験生と保護者の「第一志望こだわり」体験!

「人って変わるんですねぇ」多くの支えにより、変革した自身

僕が成基学園に入塾したのは、小学校六年生になったときだ。中学受験をするつもりはなかったので、トップ高ジュニアコースに入った。
だが、受験という気がない分、やる気もたいしてなかった。そのため、地元の公立中学校に入学し、成基学園の中学部に通い続けることにした。
中学最初の定期テストの前日、僕が、
「四五十点以上あったら、こづかい百円あげて。」
というと、母に、
「男子のくせに小さい! 五百点で。何でもかけましょう。」
と言われた。そのときはもちろん無理だったので、その賭けが『オープンテスト三教科、東大寺超えで。』
に変わった。
というのも、一年生の時から近くにあって、一番偏差値の高い東大寺学園高等学校を第一志望校にしていたからだ。

一年生の時は、好きだった数学ばかりをしていたので、オープンテストの結果は散々で、数学以外は目も当てられない結果だった。
一年生の春休み、母に、
「そろそろ英語手ぇつけなまずいとは思うけど、まぁどっちでもいいけどな。」
と言われたので、真っ白だった一年の新中問を、春休みの間にすべて終わらせてみた。
すると、二年生最初のオープンテストでは、英語の偏差値が前回と比べ二十ほど上がった。これで英語が苦手でなくなったため、そこからは英語の成績をキープすることができた。そして、二年生の中ごろ、国語の先生のことを好きだったためか、国語の成績が伸び始めた。
「これはいけるかもしれない。」
そう思いはじめたのはこのころだ。

そして間もなく、その時は来た。面談の時に、成績表を見せられ達成していたことを知った。その瞬間横で母は崩れた。担任のU先生に、
「お子さんの成績が悪くてショックを受ける方は何人もいましたが、よくて崩れる方は初めてです。」
と言われた。その横で僕は、素直に喜んでいた。

その日から、また新しい賭けが始まった。
それは、「五教科東大寺超え」というものだ。が、その時点ではまだ理科・社会は受講すらしておらず、全く手をつけていない状態で、数学のU先生が授業でやる小テストの裏に、社会の問題をコピーして、
「Sは余った時間でやっとけ。」
といじられるほどだった。僕がそんな理科や社会をやりだしたのは、もうすぐ受験生になるころだった。母に、
「そろそろする? 君の自由だけど。」
と言われたため、理科や社会の一、二年生のテキストを買って、やってみた。応用問題はあまりできなかったが、簡単な問題はそこそこ得点できるようにすることができるようになった。
三年生になって、理科・社会の授業を取り始めた。理科は意外とすんなり理解することができたが、社会はついていくことができなかった。そのため社会の先生にお願いし、補習をしてもらうことにした。最初は全然できなかったが、だんだんできるようになっていった。オープンテストでも、理科・社会共に平均で十くらい偏差値を上げることができ、奇跡的にも六月のオープンテストで十位を叩き出した。そのため、夏期合宿では一組に入ることができた。
しかし、やはり成基学園のトップクラスの集まりだけあって実力差を感じた。合宿が終わると、集中力がついた気がした。そして、
「そろそろ真剣に勉強しなくては。」
と思った。このころまで僕は、宿題はきちんとやっていたが、予習や復習といった自主学習がまったくなっていなかった。
それを改めようと思った僕は、合宿や夏期講習会のテキストを片端からやり直した。なかなかハードだったが、その分達成感は大きかった。
日進が始まって、復習や宿題をやりつつ、赤本もやり始めた。毎日勉強ばかりだったが小学生の時に、「中三でやる」と決めていたため、やり通した。その結果、日進は、十~二十位台くらいでたまに一桁が出るほどになった。
最終面談でU先生に、
「人って、変わるんですねぇ。」
と言われた時は、親子ともども爆笑した。その後の正月特訓や直前特訓も乗り切り、大丈夫と言われていたため、平常心で受験に臨むことができた。
最初に受けた岡山白陵高等学校を突破し、そのままの勢いで第一志望校の東大寺学園高等学校を受験した。合格発表で、自分の番号を見つけた時は本当に達成感が大きかった。その後も勢いに乗ったまま灘高等学校、大阪星光学院高等学校に合格することができた。

ここまで書いてみて改めて気付いたことだが、僕がここまでやってこられたのは各担当の先生方、そして何より育ててくれた親のおかげだと思う。なので、本当に感謝している。
最後になるが、僕は成基学園に入って、学研教室の先生方に出会えて本当によかったと思う。僕は胸を張って成基学園の、U先生の卒業生だと言いたい。だが、今はやめておく。灘高等学校の数学は三十七点だったから。大学受験にとっておくとしよう。